天気晴朗なれど波高し

(作中一部抜粋 / 第8話)

 長い夏期休暇が終わって、大学と自宅ととをぐるぐる巡るだけの日が続いている。朝、自宅を出て、夜、同じところに帰る。帰ると何もできないままベッドに倒れ込んでしまう。それ以外のことができたのは、昨日閉店作業中の行きつけの理髪店に行って、拝み倒して伸び放題だった髪を何とかさっぱりさせて貰ったことだけだ。
 店舗での勤務時間を少し削れば幾らか余裕も出てくるんだろうけど、大学を卒業した後のことを考えるといつまでも親からの仕送りばかりに頼っている訳にもいかない。少しでも貯えをつくっておかないと。
 就職のための下準備さえ少しもしないで夏期休暇に入った俺は、盛夏には実家に帰省することもなく二学期を迎えた。帰るところはいま住んでいるアパート以外にはなくなってしまったのかもしれない。淡く白い薄闇の中でぼんやりとそんなことを考えていた。
「霧嶺くん!」
 肩を掴んで揺さぶられる。眼を開けて身体を起こすと、直ぐ傍に恰幅のいい岩代厨房長が立っていた。勤務中の短い休憩時間をテーブルに突っ伏して眠ってつぶしてしまったみたいだ。顔を上げた俺に、厨房長が申し訳なさそうに告げた。
「悪いが、休憩時間終わりだ。ぼくと交替してくれるか。」
「……はい。すみません、交替が遅れて。」
 直ぐに椅子から立ち上がる。背中が軋むような感じがした。厨房長は俺の顔を覗き込んで、丸顔の中の太い眉を少し下げた。
「疲れてるみたいだけど、大丈夫か霧嶺くん?」
 大丈夫です、と自分がほんとうに大丈夫なのかどうかの確認や判断よりも先に、俺は答えてしまっていた。厭な癖だ。どうして咄嗟に不確かなことを言ってしまうんだろう。これはうそをついていることにはならないだろうか。
 気遣ってくれている厨房長に申し訳ない気がして、俺は少し俯いた。……こんなことを考えてしまうってことは、俺はほんとうに疲れてしまっていて大丈夫じゃないのかもしれない。
「……何だか、心配だな。」
 俯いた俺の顔色を窺うように身体を屈めて、岩代厨房長はテーブルに一方の手をついた。
「このところ、霧嶺くんはつらそうだし、石和くんは欠勤が続いてるしで、キッチンの雰囲気もいまひとつよくない。きみ等ふたりが厨房にいてくれるとほかの店員も士気が上がってたんだ、真面目によく動いてくれるからね。」
「俺は、ちょっと疲れているだけですから、大丈夫です。でも拓海がどうしているのかは俺も確かめられなくて……。」
 3日前の突然の欠勤以来、拓海は店舗に出てきていなかった。俺は大学と自宅と店舗を行き来するのが精一杯で、気にはなりながら彼奴の部屋まで様子を見に行くこともできなくて、せめて電話だけでも、と思って呼び出し音を鳴らしてみたけどまったく繋がらない。いったいどうしているんだろう。俺は自分の身体より彼奴の方がずっと気掛かりだった。
「ぼくは詳しくは聞いてないけど、店長には石和くんから届出があるみたいだ。だから、あと何日かのうちには出てきてくれると思うんだけど……。」
「秘密がばれて顔を出しづらくなったんじゃないのか。」
 岩代厨房長の穏やかな声を、棘を含んだ冷淡な声が断ち切った。
 厨房長越しにキッチンへと続く扉の方へ眼をやると、ずんぐりした厨房長とは対照的に細長い体格の店員が丁度出てきたところだった。俺たちの店舗で最も長身の店員、岸谷副店長はゆっくりと靴を鳴らしながら休憩卓に歩み寄る。
「石和くんにも困ったものだ……霧嶺、お前の女だろう、きちんと言って聞かせたらどうだ。」
 抑揚に欠けて感情の伴わない、だけど勘に障る声だった。その声に、硝子の棒で頭の中を引っ掻きまわされるような気分の悪さを感じて、俺は言葉は落ち着かせたものの声は荒げてしまった。
「副店長。何度も言いますが、拓海は男です。書類の不備を見ただけで勝手な思い込みをして都合よく女性扱いしないでください。」
「さて、どちらが思い込みなのかというところだな。」
 横柄に椅子を陣取った副店長は、俺の荒っぽい声なんか少しも気にならないという風に涼しい顔で、いつものように両切り煙草を咥えて火を点けた。
 俺だっていつもいつも虫の居所がいい訳じゃない。椅子の背に身体をまかせて、煙草を咥えたままの口許から薄く白煙をなびかせる副店長の端正だけど愛想のない顔を、真正面からはっきりと睨みつけた。拓海が出勤してこなくなったのはあんたのせいかもしれないんだぞ。怒鳴りつけてやろうかと思った。
 自分よりも一階級でも上級位の店員には絶対服従というのが店舗での規則だけど、それを破って訓戒や懲戒くらいなら喰らっても構わない気持ちだった。厨房長が喋り出さなかったら、俺はたかだか一店員の身分で副店長に喰ってかかっていたかもしれない。
 岩代厨房長は俺の隣りからやさしい声で、だけどはっきりと、岸谷副店長に向かって言った。
「副店長。石和くんはうちのキッチンで一番よく動きまわってくれる、頼れる男の子です。近いうちにきっと出てきてくれますよ。それから―――。」
 風評に惑わされて拓海に対する態度を変えてしまう店員が次々と出てくる中にあって、岩代厨房長はきちんと自分の眼で事実を見てそれを信じてくれている。自分で情報の真贋を見極めてそれに則ることができる人はいるんだ。
 厨房長の言葉に、俺は少し気持ちをほぐされた。だけど副店長の眼つきが明らさまに険しくなる。それでも厨房長は臆することなく続けた。
「店舗内での喫煙は、控えた方がよろしいのではありませんか。」
 岩代厨房長と岸谷副店長はふたりとも正社員で、年令は厨房長の方が幾つか上だ。その分、勤続年数も長い。でも店舗では年令より勤続年数より、階級が優先される。だから厨房長は自分よりも年少で後輩の副店長に丁寧に進言しているんだ。
「手についた煙草の匂いは、どれだけ入念に手洗いしても落ちません。その手で扱ったものには匂いが移ります。お客様にお出しする食べものに煙草の匂いがついては商品の品質が、我が社の姿勢が疑われます。」
「岩代。お前はいつからオレに小言を言えるほど偉くなった?」
 忌々しげな棘を含んだ言葉が、煙草を咥えた口から吐き出される。その、はげしさは伴わないものの鋭くきつい調子の言葉は、慣れない者ならすくみ上がらせてしまう非情さをはらんでいる。だけど厨房長は怯むことがなかった。
「小言などではありません、副店長。先任者からのせめてもの献言です。」
「どちらにしろ、気に入らないな。まる一年もの間オレたちを欺き続けた生意気な女の肩を持とうとするのも、休憩時間の過ごし方にまで三下如きに口出しされるのも。」
 のさばるように椅子に身を預けて、副店長は見下す視線をよこしてくる。聞き捨てならない言葉を聞いた。俺はテーブルに手をついて身を乗り出して、横柄横暴窮まりない副店長に荒い言葉で咬みついてやろうとした。それを察したのか、厨房長が俺の肩に静かに手を置く。
「霧嶺くん、きみはキッチンに入って。」
「でも、厨房長。」
「これは厨房長から店員への命令だ。」
 一兵卒の指揮官への叛逆を防ごうと、厨房長は「命令」という言葉を強く発音した。俺を気遣ってくれている。先刻からそれは判っていたはずなのに俺はどうして牙を鳴らそうとなんてしただろう。
「ぼくが抜けてきた分、厨房は手が薄くなってるから、早く。」
「……判りました。」
 ついていた手を休憩卓から離して、俺は厨房の方へと踵を返す。腹の虫がおさまらないままだったから、立ち去り際に副店長を一ト睨みしてやった。俺なんかが睨んだところで岸谷副店長が僅かにも動じることなんてことはありはしないけど、やっておかないよりは気分がましってものだ。
 それから退勤まではあと一ト息というくらいの短い時間しかなかったんだけど、その間に俺は三ツもミスをした。ひとつふたつなら何とか笑ってごまかせるかもしれない小さな失敗も、三ツ重なれば損害も大きい。
 失敗も思い返すのも面倒なほど重ねてしまえば、岸谷副店長からの丁寧な厭味にも痛みを感じなくなってしまっていた。ほんとうに疲れているんだな、俺。それを実感するばかりだった。
 我ながら頼りない、力の入らない声で退勤の宣言をして厨房を出ると、えらく眩しい人影が眼に飛び込んできた。
「お、霧嶺もう上がりか? お疲れさん。」
 明るい黄色地に赤い三角形と青い丸と緑色の四角形が散らばっている……という眼にしみるような色柄が先ず俺の意識を奪った。それが出勤してきたばかりの船井店長が着ているアロハシャツだということが判ったのは、眩しさに2~3度まばたきしてからのことだった。
「おはようございます……随分変わった模様のシャツですね。」
「御陽気だろ?」
 店長はうれしそうに満面に笑みした。どうやらお気に入りみたいだ。それは別に構わないんだけど、いったい何処で売っていたんだろう、こんなめずらしい色柄のアロハシャツなんて……。俺はぼんやりと幼児用玩具みたいな配色の店長のシャツを見ていた。
「霧嶺。お前さん、ここのところちょいとくたびれてないか?」
 気が付くと、店長は面貌から笑みを消して俺の顔を覗き込んでいた。俺は慌てて笑ってみせる。
「学校がはじまったところだから、まだ身体が慣れていないんですよ。」
「ふむ……。」
 店長は人の好さそうな眉を下げて両腕を組んだ。
「あんまり無理が掛からんように、大事にしてくれよ。石和は今日も休みらしいし、この上お前さんにまで休まれたら厨房の方が厳しくなるからな。」
「彼奴、今日も欠勤ですか。」
「何だ。お前さん、石和の容態を知らないのか。」
 これは意外だという風なちょっと驚いた表情で、船井店長は改めて俺の顔を覗きにきた。
「石和の奴ぁ、えらく熱を出して動けないって話だぞ。」
「熱?」
 今度は俺が驚く番だ。ついこの間までぴんぴんしていたのに急に熱を出すなんて、いったいどうしたんだろう。また俺の知らないところで無茶をしていたんだろうか。
「何でも、40度ばかり熱を出して声が出なくて寝込んでるらしい。今日も休むって電話で届出があった……高村さんの声でな。」
 夏の疲れが一気に出てきたのかもしれんな、と店長は吐息をついた。彼奴は際限なくがんばるからな、と。なるほど。声が出ないんじゃ電話をかけても出られない訳だ。高村さんだって四六時中傍にいられる訳じゃないだろうし。
「石和のことだから多少のことがあっても這ってでも出てくるだろうが、40度も出してちゃ幾ら彼奴でも動けまい。……あと少しで本部から正採用の承認が下りる。それまでに治して出てきてくれればいいんだが。」
 心配げに店長は眉根を寄せた。
 正採用の承認が下りる。明言があったってことは、店長が自分で拓海の正社員登録の手続きを全部やってしまって、その進捗を把握しているってことだ。
「店長。拓海の正採用の手続きは、全部店長がやったんですよね?」
「ああ、そうだが……そうか、お前さんは石和の事情を知ってるんだったな。」
 頷いておいて、俺は続けて訊ねた。
「彼奴が提出した年金手帳、事務机の中に入れていたんですか?」
 店長の表情が、微かに険しさを帯びる。
「確かに机の抽斗の奥底に一ト晩だけ収ってあったが……何故そんなことを知ってる?」
 ―――店長は気付いていなかったのか! 告げ口をするようで多少引けめはあったけど、俺は本人の口から聞いた通りを伝えた。
「岸谷副店長が、店長の机の中にあった拓海の年金手帳を見たと言っていました。」
「奴がか!」
 半ば怒鳴るような勢いで、店長は声を上げた。これまで一度だって見たことのない、厳しい顔つきになっている。
「何てことだ……俺としたことが。」
 口惜しそうに頭を掻きむしる。いつもの呑気顔からはまったく想像もつかない真剣な表情で、店長は唸るように呟いた。
「短気を起こさなけりゃいいんだが……。」
 シフト明けのその足で、拓海の部屋に向かった。俺も疲れてはいたけど、いつもとにかく元気な奴が40度もの高熱を出して寝込んでいるなんて知ったからには心配せずにはいられない。少しずつ落ちるのが早くなってきた夕陽を浴びながら早足で街を横切った。
 〈石和〉の表札が掛かった扉の前に立って、俺は直ぐにドアノブに手を掛けた。寝込んでいて動けないのなら呼び鈴を鳴らして呼び出そうとなんてしない方がいいと思ったんだ。
 予想通り鍵は掛かっていなくて、ノブをまわすと扉は簡単に開いた。だけど、開けた途端に拓海の年季の入った運動靴と並んでひとまわり小さいサイズのパンプスが揃えられているのが眼に入ったから、改めて呼び鈴を鳴らした。直ぐに軽い足音が聞こえはじめる。
「あ、次郎くん。連絡取れなくて御免ね。」
 そう詫びながら姿を見せた高村さんの面貌には、ほんの少しだけど陰が差しているように見えた。疲れているのかもしれない。ずっと彼奴に付きっきりだったんだろうか。
「寝込んでいるんだって、彼奴? 店長から聞いたよ。」
「そうなの。熱が全然下がらなくて……病院に行くように言ってるんだけど聞かないのよ。次郎くんからも何とか言って貰えない?」
 ほとほと困った、という様子で高村さんはかぶりを振った。俺は頷いて、玄関で靴を脱いだ。
 玄関から一番遠い部屋に広げられた布団の上に、ぶかぶかの白いTシャツと淡いカーキ色の膝丈のズボンという恰好の拓海は、ぐったりと転がっていた。頭の下には氷枕、額の上には濡れタオル、腹の上には薄い毛布。この姿、以前にも見たことが……あのときだ。
 小学生になってはじめての夏休み、炎天下を走りまわって日射病になったとき、丁度こんな恰好でこんな風にぐったり倒れていたっけ。石和のおばさんが、限度を考えなさい、って文句を言いながら濡らしたタオルを絞っていたのを憶えている。
「拓海、起きてる? 次郎くんが来てくれたわよ。」
 高村さんが枕許に膝をついてそっと声を掛けると、拓海はゆっくりと閉じていた眼を開いた。俺は床の傍に腰を下ろしてその顔を覗き込む。
「どうしたんだよ、お前が寝込むなんて。鬼の霍乱か。」
「馬鹿、何で、来たんだよ……。」
 かすれた、途切れ途切れの声を、拓海はつらそうに表情を歪めながら絞り出してきた。流石に発音も不明瞭で、何とか聞き取れるくらいだ。
「お前も、彩も、随分、御節介だ……伝染ないうちに、帰れ。」
「伝染るって……お前、風邪なんかじゃないだろう。」
 俺は利き手を拓海の首すじに伸ばした。手が触れた途端に、拓海はびくっと身体を強張らせる。何かを警戒するように。
「拓海。いま、お前にさわっているのは俺だ。心配は要らない。」
 静かにそう言うと、力んだ拓海の身体から次第に力が抜けていった。……拓海は、他人ひとに身体に触れられることをひどく警戒する癖がある。
 いまではこれが表立って現れることはほとんどないんだけど……学生時代の警戒ぶりは傍目に見ていて痛々しくさえあった。第二次性徴を迎えて女性らしいかたちに変化していく自分の身体が、許せなかったんだろう。特に、眼で見て判る女性としての特徴となる乳房の発達は耐え難かったらしく、晒布をきつく巻いてふくらみを押さえ込んでいた。
 制服を着なければならない学校以外の場所では素の姿―――男として過ごしていたから、身体に触れられることで隠したふくらみを悟られることを怖れていたんだ。その頃から俺だけは警戒せずにいてくれたんだけど、高熱で朦朧としているいま、そんな判断なんかつかなくて旧い癖が出てしまったんだろう。
 拓海の警戒が解けたところで、俺は首すじや喉の辺りを軽く押さえてみた。手に、想像よりも張った、硬い感触が伝わる。
「うわ……リンパ腺が腫れているな。喉もかなりの腫れ具合いだ。これは扁桃腺炎からくる熱だろう。病院で抗生物質を貰ってきた方がいいぞ。」
「……これくらい、放っときゃ、治る。」
「放っといて治らないから何日も寝込んでいるんだろう。ここからなら松代病院が近い。確か今日は午後の診療もやっているはずだから、行こう。」
 拓海は、熱で潤んだ眼を逸らしたかと思うと、氷枕の上で頭を転がして顔ごとそっぽを向いてしまった。額に乗せていたタオルがすべり落ちる。
「俺が着いて行くから……保険証は何処に置いているんだ?」
 拓海は黙ったままで答えようとしない。枕許にいる高村さんが諦めに似たため息をついて座を外す。無言で隣りの部屋の方へと向かった。
「病院……厭なのは判るけどさ、いつまでもくたばっている訳にもいかないだろう? 少しのことだから、我慢して、さ。」
 俺は、顔を向こうに向けたままの拓海を諭すように、ゆっくりと言った。ただ病院が嫌いだというそれだけの理由で高熱に燃される苦しさに耐えているんじゃないってことは判っている。
 拓海が病院を厭がる理由は、ほかにあるんだ。〈少しのこと〉なんて俺は簡単に言ってしまったけど、拓海にしてみれば我慢しかねることなのかもしれない。
「次郎くん、これ。」
 戻ってきた高村さんが、1枚のカードを差し出してくれる。拓海が不味そうな表情を少し見せたけど、抗議の声が上がる前に俺はそれを受け取った。
 国民健康保険証。石和拓海、9月1日生、女。
 これを他人に見せなきゃならないのが厭で、拓海は病院を嫌うんだ。身分証明には性別記載のない運転免許証を使えば大抵の手続きが滞りなく済ませられるけど、病院で診て貰うときだけはそういう訳にはいかない。
 間違った性別が記載されたものを提示しなきゃならないのは、俺なんかが想像するよりずっとはげしい苦痛なんだろう。40度の高熱に耐える方がましなんだってくらいに。だからって、このまま放っておく訳にはいかない。
「拓海、病院へ行こう。いまの時間ならまだ受け付けてくれるから。」
「…………。」
「注射と喉の消毒をして貰うだけでもかなり楽になるはずだ。薬を貰って服めばそれだけ早く治るだろうし……さ、行こう。」
「―――。」
「拓海!」
 何を言ってもそっぽを向いたままで拓海は黙り込んでいる。ぐったりしたままで足の指一本動かそうという気配すらない。いったい、何処まで強情なんだか。流石に俺も少し苛立ってきて利き手で頭を掻いた。
「ずっとこの調子なのよ。食事も喉が痛くてほとんど摂れてないし、熱のせいで身体中が痛むみたいだし、何回測っても熱は一向に下がらないし……もう、どうしようかと思って。」
 高村さんも半分は腹を立てているみたいだけど、半分はほんとうに困っている。ずるずる道の上を引き摺って病院まで連れて行く訳にもいかないしね、と途方に暮れて深々とため息をつく。
「喉の痛みと、筋肉痛と関節痛があるんだね?」
 俺は高村さんに確かめた。頷く高村さんを見て、子供の頃と同じだ、と思った。
 普段は手がつけられないほど元気なのに、ときどき思い出したように扁桃腺を腫らしてとんでもないくらいの熱を出すんだ。日頃じっとしていない奴が突然ぐったりと動かなくなるから余計に吃驚するし心配になる。  俺は高村さんから受け取った健康保険証をズボンの尻ポケットに収って、もう一度言った。
「拓海、病院へ行こう。」
 やっぱり返事はない。俺と高村さんは顔を見合わせて、互いに肩をすくめて一緒にため息をついた。
「仕方がないなあ。」
 最後の手段だ。俺は一方の膝をついてもう一方の膝を立てるかたちにすわり直して、片方の腕を拓海の肩の下に、反対の腕を両膝の下に差し入れた。そのまま腕と足腰に力を込めて立ち上がる。
「!」
 喉が痛むせいで声は立てられなかったけど、拓海は自分の身体がすっかり抱え上げられてしまったことに吃驚したみたいだ。息を呑む音が聞こえた。俺は両腕で拓海を抱えたままで玄関へ向かった。
「それじゃ高村さん、ちょっと行ってくるから。」
 そう告げて玄関口まで歩いた俺の肩口に、拓海は慌てた様子で何度も平手を叩きつけてくる。流石に手足をばたつかせるほどの暴れ方はできなかったらしく、これが精一杯の抵抗だったみたいだ。
 靴を履く一歩手前で足を止めて顔を見ると、口惜しさの混じった表情でかすれた声をやっと絞り出した。
「……下ろせ。自分で、歩いて、行くから。」
「最初っから素直にそうすればよかったんだよ。」
 俺はゆっくりと腰を落として、拓海を足の方から床に下ろした。自分の足で立った拓海は、熱でふらつくおぼつかない足取りで、素足にサンダルを履いた。口の中で何か文句を言っていたみたいだけど、それは聞き取れなかった。
 松代病院は個人医だけど4階建ての立派な病院で、1階が外来、2階から上が入院病棟になっている。普通に歩けば拓海の部屋から10分くらいで着く場所なんだけど、朦朧としていてひとりじゃ真っ直ぐ歩けない拓海はそれ以上の時間を掛けて、足を引き摺るようにして足許に地面があることを確かめながら一歩ずつを歩んだ。
 その身体を支えながら俺は、抵抗されても抱えてくるべきだったかな、と思った。呼吸が荒くて、ひどく苦しそうだった。
 病院に着いたのは陽も沈みかけた、受付窓口が閉まるぎりぎりの時間だった。拓海を待合室のソファにすわらせておいて、窓口で受診の手続きをする。保険証を見せて、カルテをつくるための書類を受け取る。住所と、名前と、年令と、性別と―――。
 俺は手にした鉛筆を一瞬だけ止めてしまったけど、直ぐに性別欄の〈男〉に丸を付けた。記入を終えた書類を提出して引き替えに体温計を手渡される。それを、ソファに総身をまかせて動けずにいる拓海の腕を取って、腋に挟んでやる。腕を取ったとき、拓海はびくっと身体を震わせたけど、閉じていた眼を薄く開けて俺を確かめると、直ぐにその緊張を解いた。
 体温計を腋に挟んだ拓海は、眼を閉じてじっと動かなかった。浅めにソファにすわって頭までをも椅子の背にまかせてしまっている。
「お前がこんなにおとなしくじっとしているのって、何だか不気味だな。」
「……放っとけ。」
 その強がりも呟くようで、勢いがなかった。
 力なく長椅子に沈んでいる拓海の腋から引き抜いた体温計を確かめて、俺は思わず小さく声を洩らした。体温計が示しているのは、41度。……おとなしいはずだ。
 体温計を窓口に返すと、間もなく診察室に呼び出された。あんまり熱が高かったから、受付の順番よりも早くに呼んでくれたみたいだ。
 脇から抱えるようにして拓海を支えて、1番から3番まであるうちの3番の診察室に一緒に入る。そこには、黒い縁の眼鏡を掛けた若い医師が控えていた。
「かなり熱があるようだね。早速だけど、症状を聞かせてくれるかな。」
 声を出せない拓海に代わって俺が、喉の痛みがひどくて声が出なくて食事も碌に摂れていないこと、筋肉痛と関節痛があることを答えた。俺の一ト言ずつに丁寧に頷きながら医師はカルテの上にボールペンを走らせる。それから両手で喉や首の付け根辺りを触診して、やっぱり腫れてるね、とやさしそうな下がり眉を更に下げた。懐中電灯を使って喉の奥を診て、またつらそうな顔を見せる。
「ああ、これはひどいな……これじゃ食事は難しいだろう。息をするのも苦しそうだ。」
 腫れがひどくて喉が狭くなってしまっているんだろう。懐中電灯を机の上に置いた医師は看護師さんを呼んで言った。
「空きベッドの確認を御願いします。」
 それがはっきりと聞き取れたから、俺は一気に不安になってきた。俺が考えているより拓海の具合いはずっとよくないのかもしれない。
 続いて医師が聴診器を耳に掛けたから、拓海のぶかぶかの白いシャツをまくり上げさせた。胸に聴診器を当てるときに、まだ残っている手術創の痕を見たはずの医師は、そのことには触れなかった。
 背中側の聴診を終える頃、足早に看護師さんがやってきて医師に何ごとか告げた。それを聞いてカルテに何か書きつけてから、眼鏡の若い医師は拓海と俺に真っ直ぐに身体が向くように椅子をまわした。
「食事が摂れないのなら、入院した方がいいかもしれないね。ベッドも空いてるようだから。
「入院、ですか。」
 予想の及ばなかった診断に俺は半ば呆然としてしまって、それだけしか言えなかった。そんなに拓海の身体は弱ってしまっているのか。
 椅子に腰掛けている拓海に眼をやると、露骨に厭そうな顔をしていた。それだけは勘弁しろ、とでも言いたげな表情だ。容易に声が出せたなら遠慮なくそう言っていただろう。でも、この厭がり方は、費用が掛かって困るとか、面倒だからとか、そんな簡単な理由からじゃないみたいだ。
 入院することそれ自体が厄介ごとをはらんだ、可能な限り避けなければならないことなんだ、と虚ろながら医師を見据えている眼が訴えているようにも思えた。
「入院と言ってもね、それほど長期のものじゃなくて……早ければ3日くらい、長くても10日くらいで済むと思うんだ。要は、熱が下がって自分で楽に食事が摂れるようになればそれでいい。いまはそれが難しそうだから、点滴で抗生物質の投与と栄養剤の補給をして、これ以上の体力の消耗を防ごうってことなんだ。」
 医師は患者―――拓海の緊張を解こうとやさしく判りやすく説明してくれたけど、拓海の面貌から〈勘弁しろ〉が消える様子はない。
 一ト呼吸置いてから、医師は続けた。
「……とは言っても、ぼくは外勤だから入院を決める権利はないんだ。この後直ぐに院長の診察を受けられるように手配したから、ちょっと長引いて悪いけど、院長と相談してみてくれるかな。」
 そういう訳で、俺たちはまた待合室で暫く待つことになった。拓海は明らかに入院が厭そうだし身体はつらいしで院長と会わないで早く帰りたそうだったけど、入院しないと保たないような状態なら厭だろうが費用に困ろうが入院した方がいい。俺は院長が入院の判断を下してくれた方がいいんだと思っていた。
 診察の受付も終わってしまって受診待ちの人もごく少なかったから、院長と会うまでの時間はさして長くはなかった。今度は1番の診察室に入るよう指示される。扉を開けると、壮年の気難しそうな顔をした医師が待ち構えていた。白衣の胸許に付けた名札には〈院長・松代〉と書かれている。
 先に診てくれた眼鏡の若い先生と同じように触診や聴診を一ト通りやってしまうと、院長はカルテを睨んだ。ほかの診察室はもう診察を終えてしまっているらしくて話し声も物音もなく静かで、院長が黙ってしまうとしんとしてしまう。この静かさに、俺は心細さを感じる。そんなに難しい診断なんだろうか。
 やがて院長は、いい加減身体を起こしているのさえつらくなってきた様子の拓海に眼をやった。そしてまたカルテを睨む。それを何度か繰り返した。まるで、拓海を値踏みするかのように。その視線が胡散くさそうに思えたのは、俺の気のせいじゃなかったみたいだ。
 カルテと拓海とを交互に見比べていた院長はカルテで眼を止めて、何かをごまかすように言葉を濁した。
「ええと、新井先生から入院の話があったようだが、その必要は、ないんじゃなかろうか。食事が摂れないのは確かに困りものだが、まあ、食事が摂れるようになるまでは点滴を受けに通いなさい。それがいい、そうしよう。」
 これは相談じゃない。会話をしようという意志が、院長の言葉にはまったく感じられなかった。
 あまり関わっていたくない。そんな風にも見える態度だ。高熱で苦しんでいる患者が眼の前にいるというのに。俺は少し腹が立って、詰問した。
「それは……熱があってもここまで出向いてこいってことですか。」
「ん、まあ、そういうことになるが……。」
 何かを取り繕うように院長は少し早口に答える。
「来るくらい来られるだろう。今日だって来てるじゃないか。何が何でも入院しなければならないというものでもない。何、死にはせんよ。」
「でも、それじゃ……!」
 医者の言うことにしてはあんまり無責任過ぎる。俺は喰い下がろうとした。だけど、拓海の手が重そうに動いて俺の背中を叩いた。眼を向けると、拓海は小さく首を左右に振った。俺は不承不承、口を噤んだ。
「うん、熱が下がるまで通いなさい。薬は出しておくから。あと、処置室で喉の炎症を鎮める薬を塗って貰って。それで痛みはましになるだろう。食事ができるようになったら通ってこなくていい。」
 とにかく早く診察を終えたい。院長はそんな素振りだった。診察時間が遅かったから早く切り上げたいのかと思ったけど、どうやら違ったみたいだ。
 鎮痛消炎剤で腫れ上がった喉を拭って貰った拓海と一緒に処置室から通路へ出ると、先に診てくれた眼鏡の若い医師が診察室から引き揚げようと出てきたところに出会った。
「どうだった、院長の診察は?」
「それが……。」
 親切に訊ねてくれた医師に、俺は院長の診断をかいつまんで話した。すると眼鏡の医師はとても申し訳なさそうに表情をくもらせた。
「そうか……済まないことをしたね。院長も悪気がある訳じゃないと思うんだ。ただ、智識がないだけで。」
「あなたが謝らなきゃいけないことじゃない。」
 答えたのは拓海だった。薬を塗って貰った御陰か痛みを我慢したのか、明瞭な発音だった。それだけ言うと、拓海は一度止めた足をふらつきながらも再び運び出した。眼鏡の医師に頭を下げて、俺は慌てて後を追う。
 このときになってやっと俺は気付いた。院長がカルテと拓海とを何度も見比べていたのは―――拓海の入院を拒んだのは、カルテに書き込まれた健康保険証記載の性別と拓海の外見の性別とが合っていなかったからなんだ。
 俺が受付で書いた書類よりも保険証の記載の方が優先された、それは仕方がないにしても、性別だけで治療を拒否されてしまうなんてことがあっていいのか。
 確かに入院させると不都合もあるかもしれない。保険証に従えば女子病棟へ、拓海が自認している性別に従えば男子病棟へ入院させることになるけど、どっちを択ってもほかの入院患者との関係や職員の統率や、いろいろ調整しないといけなくて何かと面倒は起きる。
 拓海が入院を厭がったのもこういうことが起こり得ることが予想できたからなんだろう。でも、だからって、患った者が医療から放り出されるなんて、絶対に許されていいことじゃない。
 薬を貰って病院を出る頃には、表は陽が落ちてしまってすっかり暗かった。つらそうに息を荒くしながらふらつく足を何とか進める拓海の身体を支えながら歩く。月が高くてまるかったけど、行き交う自動車のヘッドライトが多過ぎて夜空はくもって見えた。
「ジロ。」
 病院からそれほど離れていないところで、拓海は行手に顔を向けたままで呟くように言った。
「判ったか。世の中から爪弾きにされるってのは、こういうことだ。」
 俺は何も言えなかった。拓海はこれまで何度こんなめに遭ってきたんだろう。どれだけ耐えてきたんだろう。人として当然の権利を奪われる理不尽がごく当たり前のように眼の前に現れる。信じたくはないけど眼を逸らしちゃいけない、これが現実なんだ。
 冷たくなりはじめた秋の夜風の中で、俺は口唇を噛んだ。

 

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